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キャロル・ケイ vs ジェームズ・ジェマーソン論争を読み解く②

2-2. セッション・ミュージシャンのレガシー①(pp. 79-82, ジェマーソン登場まで)

1930年代、録音技術やラジオの進歩により、アメリカ全土でミュージシャンたちは職を失った。しかしこれは、腕利きのミュージシャンにとっては、「セッション・ミュージシャン」という新たな職業の誕生を意味してもいたのだ。

セッション・ミュージシャンという職業が登場し、腕利きのミュージシャンたちは定収入を得ることができるようになった。一方で、彼らの扱いはアーティストというよりは労働者に近く、誰が楽曲を演奏したのかというクレジットが残されることはなかった。

筆者はセッション・ミュージシャンという職業の誕生から、論を説き起こす。レコードやラジオが登場するまでは、ミュージシャンたちは地元のライブハウスなどで演奏をして収入を得ていた。技術の進歩により、こうしたミュージシャンの多くは職を失ったが、腕利きのミュージシャンは、セッション・ミュージシャンという新たな、より安定した職にありついたというわけだ。

ある職業が失われ、同時に別の職業が生まれる。しかし腕利きの一部しかその職にありつけない。こうした事態は、技術の進歩に伴って色々な場面で起きているのかもしれない。

モータウン・レコードも例外ではなかった。自動車の街デトロイトでこのレーベルを立ち上げたゴーディは、よいレコードを工場のように生産するレーベルを目指していた。セッション・ミュージシャンの存在もこの構想の一部であった。

筆者が指摘するように、モータウンデトロイトを本拠にしていたというのは示唆的だ。デトロイトはフォードやゼネラル・モーターズGM)が工場を置いていた自動車の街。もとより、「モータウン」というのはMotor Townを略した、この街の「あだ名」である。自動車の街で、工場のようにレコードを「生産」していくというビジョンは、現代ではなんだか安っぽく聞こえるかもしれないが、当時の人々にとっては、ピカピカした「未来」のビジョンだったのだろう。

デトロイトモータウン・レコードで活躍したセッション・ミュージシャンたちは、「ファンク・ブラザース」と呼ばれた。迅速に、しかし丁寧に、レコード向きの演奏ができるミュージシャンたちであった。

このファンク・ブラザースのひとりが、ベーシストのジェームズ・ジェマーソン(JJ)だ。JJはレーベルにとっても欠かせない存在であり、会社はJJに週に1000ドル(今日の感覚でいう7000ドル程度)を支払っていたとされる。ジェマーソンは、細かい指示がなくても印象的なベースラインを紡ぎだすことができた。レコーディングの現場ではコード・シートが渡されるだけで、ミュージシャンたちはその場でラインを考えていたのだ。

レコーディングを行うときに、ミュージシャンに渡される譜面には、大きく分けて「書き譜」と「コード譜」がある。書き譜とは、音符が一音一音書かれており、どんなラインを演奏するかが細かく指定されているものだ。一方でコード譜とは、小節のコードネームのみが書かれており、それをみながらミュージシャンは自分でラインを考えながら弾くことになる。モータウンのセッションで渡されるのは、コード譜であった。ジェマーソンはコード譜をみて、即興でラインを考えるのがとても速かったようだ。レコード工場たるモータウンは、重宝しただろう。

週給7000ドルは、今の(2023年9月の)レートでいうと週給100万円。今はひどい円安なので、論文が書かれた2019年のレートで計算してみると、それでも週給75万円くらい。給与面での待遇は、かなり恵まれたものであったようだ。

(つづく)