みなみまなぶのブログ

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芦沢央『火のないところに煙は』読了

連作モキュメンタリー。

著者が週刊誌に怪談を連載するためにネタを集めていく中で、怪異に巻き込まれていく様子を描く。

『ゴドーを待ちながら』のホラー版というか、鍵になりそうな人物が見え隠れしつつも、最後まで現れないという不思議な物語構造を有しており、そこがまたなんとも不気味である。結局あいつは何だったのかが、最後までよくわからないのだ。

怪異に怪異なりの理屈がつけられそうになる瞬間もあるのだが、しかし最後まで「いや、その理屈でこれは説明がつくとして、じゃあ……あそこに見えているあれはなんなの?」的な割り切れなさが残る。

三津田信三作品的な「ひい~っ」と震えあがってしまう怖さはないのだが、芦沢央の作品はとにかく不気味にじわじわと怖い。

原田マハ『星がひとつほしいとの祈り』読了

私の推しは、読書家である。

ステージ上で凛々しくもクールに歌い踊る彼女は、しかしステージを降りると様子が一変する。特典会を訪れるファンに対して、熱のこもった口調でおすすめの本を教えてくれる謎の文学美少女に変身するのだ!

そんな、色々な意味でマジでかけがえのない推しが薦めてくれた一冊。

 

短編集だが、この記事では表題作について評する。

戦時中の日本を舞台にした、富豪の令嬢である盲目の少女と、その世話役の女性とのシスターフッドを描く物語である。少女は戦火の中で世話役に連れられ、世話役の郷里へと疎開することになる。実はその直後に少女の父は空襲の中で命を落としてしまうのだが、盲目の少女に代わって手紙を読んだ世話役は、少女にそれを伝えない決断をする。最終的には世話役は、ある出来事を契機として大きく体調を崩してしまうのだが、それもまた、少女には悟らせまいとする。盲目の少女は、世話役をマッサージしながら、私が治してあげる、と無邪気に話す。

 

本作の中では西洋の詩がしばしば思わせぶりに引用されるが、この小説のタイトル「星がひとつほしいとの祈り」から当然に思い浮かぶのは、作品内では直接引用されていない、英国の詩人ジョン・キーツによるソネットであろう。

Bright star, would I were stedfast as thou art.

輝く星よ、あなたのように揺るぎなくありたい。

夭逝した医学生詩人キーツが恋人にあてたこの詩を引用するまでもなく、文学作品の中で「ひとつの星」が言及された場合、まず連想されるのは北極星である。天球にあって、常に動かずに輝き続け、船乗りたちを導いてきたその星は、揺らがないものの象徴である。

 

世話役は主人公にとっての星でありつづける。しかし、時代に翻弄され、モータルな身体をもつ世話役が、少女にとって揺るがぬ星であり続けられたのは、「触れることはできるが、見ることができない」という少女の有する制約によってであった。この制約によってこそ、少女の父の死や、世話役自身の激しい体調不良は覆い隠され、少女にとって世話役は確かな存在であり続けた。

推しと同じだ、と私は思った。推しはファンにとって、「見ることはできるが、触れることのできない」存在である。どんな人間にもどこか裏側にはどろどろしたものがあるのだろうが、それは舞台であるステージには直接的には持ち込まれず、ファンはそこに触れることはない。推しがステージの上で輝き続けるのも、この制約があるからなのかもしれない。

 

精神分析家であり、自身もアイドル的な人気を誇るミュージシャンだった北山修は、心の「舞台裏」について日本文化論の観点から論じてきた。北山によれば、「裏」とは「夕鶴」の物語や黄泉平坂でのイザナミの神話にみられるように、見るなと言われても見たいものなのであった。私だって、推しの舞台が気にならないと言えば、嘘になる。

 

しかし、触れられない。それでいいのだろう。推しが星(スタア)である限り。

推しとは、否、星とは、手を伸ばしても触れられないものなのだから。

 

私の星は、読書家である。

――名を、葵音琴という。

『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』読了

 究極の自己啓発本のようなタイトルをしている。ところがどっこいその内容は、既存の自己啓発本を茶化しのめすもの。ビジネス系自己啓発本を読みまくった結果、その内容が相互に思いっきり矛盾していることに著者は気づく。「いやな頼みを断るな」と書いているビジネス書もあれば、「いやな頼みは断れ」と書いているビジネス書もあるといった具合だ。

 「会議」ひとつをめぐっても、ビジネス書は相互に矛盾した様々な教えを垂れている。そもそも会議に出るなというビジネス書もあれば、出席してドンドン発言しろというものもある。会議ではおそれずに自分の作業をし方がいいとする本もある。なかにはスピリチュアル系の内容になっていく本も……。著者は100冊のビジネス書の教えを総合した結果、次のような結論に行きつく。

会議に出るときは、最前列に座ってスマホをいじりながらタブーをドンドン発言し、祈りを捧げて会議室を神社化するとよい。

 私も是非やってみたい。これができたらいろんな意味で無敵になれると思う。

 終始こんな調子で、笑って読んでいるうちに、ビジネス書を読んで肩ひじ張っているのが馬鹿らしくなり、まあなんでもいいか、と楽な気分になることができる。

藤倉善郎編著『スピリチュアリズムとナショナリズム』読了

 「スピウヨ」を追った、複数の著者によるルポ。

 新興宗教「生長の家」の誕生と、それがいかにして政財界に染み込んでいったのかをたどった第一章。自己啓発的な色合いのあった「生長の家」の教義が、松下幸之助や稲盛和夫といった大物経営者を経て、たとえば松下政経塾出身の高市早苗といった政治家たちに引き継がれたり、あるいは「社訓」という形で広く薄く全国に広げていったりといった流れがあったことが解説される。「布教」となると相手も身構えるので難しいが、「社訓」や「社風」の中に教義が盛り込まれてしまうと、影響を受けないのは難しくなるという指摘は納得であった。

 ライターによるスピリチュアル愛国セミナーへの潜入ルポである第二章。愛国的な内容が、次第に病気などを例に出して脅すような話になり、最終的には高額のセミナーへの誘導になっていく様子を克明に描いていた。

 以降の章でも参政党やヤマトQ(変換できない)といったムーブメントが扱われ、その不思議な世界観の一端を垣間見ることができる。一方で、冒頭で編者が述べている通り、「なぜスピリチュアルはナショナリズムと結びつくのか」を掘り下げて論じる本ではなく、そこは最後まで謎として残った。

浅田彰『ヘルメスの音楽』読了

 浅田彰による芸術批評。しかし、この浅田彰という一世の才人にとって、実はある時点から知識というのは余計な重荷になってしまっていたのではないか。ポストモダンについての「チャート式」的な知識やスキゾとパラノの分類は、彼にとって自由な文章を書くことの制約になっていたのではないか。

 本書で一番美しかったのは、ほとんど知識を含まない詩のような断片として書かれたデルヴォー評である。自身の提唱した「スキゾキッズ=散文家」になりきれない、どうしても知識が文章に入り込んでしまうところに(そしてそれを期待されてもいた)、この才人の苦悩があったのではないかと思った。

 のちに田中康夫と時事放談をしている浅田がなんだか楽しそうに見えたのは、こうした呪縛から解放されていたからかもしれない。

宮崎駿『風の帰る場所』読了

 投影過剰な渋谷陽一による、連想過剰な宮崎駿へのインタビュー集。渋谷はパヤオに「あなたはこういう人であるはずだ」と、自分がそうあってほしいパヤオ像を言うが、それは渋谷の理想の投影であるので、パヤオ自身は当然ながら「え? 全然違いますけど……」と困惑するということを終始繰り返している奇妙なインタビュー集である。

 しかしパヤオは相手が何を言おうと関係なく虚空から何かを連想してしゃべりだす(そして怒り出す)奇癖があり、話に関係しているのかよくわからないエピソードトークを絶えず繰り出しながらテンポよくブチ切れ続けるので、脈絡としてどうなっているのかは全くわからないが、それなりに楽しく読めた。

 一貫してパヤオは手塚治虫・ディズニーに対する怒りに燃えているのであった。それは彼自身の創作手法にも反映されているようだった。つまり、パヤオは、何か物語を考えようとすると①手塚治虫的ディズニー的な嘘くさいヒューマニズムのストーリーをぱっと思いつく、②「なんじゃこれは!こんなの嘘くさい!」と勝手に怒り出す、③最初のストーリーを否定する、別のストーリーを考える、という弁証法的(でもないか)三段階で物語を構想しているようであった。

「あれを今観てみなさい。真面目な視点を持って、これがちゃんと生身の人間だなっていうふうに移し替えて、あの『白雪姫』を。アホ娘ですよ、もう」

――ははははは。アホ娘(笑)。

「王子も。」

最後の「王子も。」がたまらなくおもしろい。『白雪姫』を「真面目な視点を持って」「生身の人間」と思って観賞して怒る人も珍しいが、さらにちゃんと王子にまで怒るところに、パヤオの奇妙な律義さが出ている。

 また、一貫して「マルクス主義についてはついぞちゃんと勉強しなかったけど、それではだめだと思った」、「それより植物の成長を描く映画をとりたい」ということを言い続けていた。両者がどう結びつくのかはいまいちわからないのだが、この人は植物の映画を撮りたい人だったのか!?というのは強く印象に残った。たしかに『トトロ』『ナウシカ』『もののけ姫』すべて植物の描写が印象に残る。

 いつかジブリを全作順番に鑑賞していきたい。それがこの律義で奇妙な老人への礼儀であるような気がしてきたから。

マキアヴェッリ『君主論』読了

 マキアヴェッリの『君主論』は、しばしば自己啓発本的な読み方をされることがある。ギャグ路線が斬新だった『よいこの君主論』が流行ったのも、今は昔の話となってしまったが。

 しかし、中身を改めて読んでみるとどうなのだろうか。自分よりも強力なものと同盟するな、相手の傘下になるだけだから。君主をみたければ、その配下をみよ。

 ――リーダー論としては平凡の趣すらある。それだけこの本の考え方が人口に膾炙した証拠でもあろうが、君主をみたければ配下を、などというのは中国の兵法書なんかがもっと昔に指摘していたのではなかろうか、たぶん。

 一方でこの本を読み進めるうちに、この本で描かれている「君主」とは、西洋近代における「個人」のことなのではないかという感想を抱いた。マキアヴェッリは終盤で運命と自由意思について論じている。

 まさに自由意思を持ち、自己決定していく主体としての理想の人間像が君主論として描かれたのがこの本のおもしろいところだったのではないか。哲学史を詳らかにしないのではっきりとしたことはわからないのだが。