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エイプリルフールの「午前中ルール」の起源と歴史

0. この記事の目的

最近、「エイプリルフールに嘘をついてよいのは午前中まで」という言説を、ネットを中心に見かけるようになった。私の子供の頃は、こんな説はなかったように思う。

そこで、このルール(以下、「午前中ルール」と呼ぶ)の起源について調べてみた。

1. 日本のまとめサイトやキュレーションサイトで見られる説明

「エイプリルフール 午前」でgoogle検索をかけると、多くのまとめサイトやキュレーションサイトがヒットする。しかし、この手のサイトの常として、内容は大同小異だ。どのサイトでも、イギリスの記念日「オークアップルデー」こそが、このルールの起源だとされている。一番にヒットする、ねとらぼの記事から引用しよう。

イギリスでは「オークアップルデー」という王政復古の記念日があり、午前中だけ国王への忠誠の証としてオークアップルの実を身に着ける風習があります。これがエイプリルフールにも流用され、現在の「ウソをついていいのは午前中だけ」というルールになったのだそう。

つまり、イギリスの記念日、オークアップルデーの「オークの実を身につけるのは午前中まで」というルールとエイプリルフールが混同された結果、午前中ルールが生まれたというのだ。

しかし、疑問が残る、本当にイギリスでは、21世紀にもなってなお、国王への忠誠を示す日があり、しかも示さないと非難されるなどという旧弊が存続しているのだろうか。また、エイプリルフールの午前中ルールがいつから存在するのかも、これでは未だ明らかではない。

2. オークアップルデーの真実

午前中ルールはイギリスに起源を持つというのは、おそらく事実だろう。CBCニュースの記事によれば、Iona Opie と Peter Opieが、論文中で午前中ルールに言及している(Opie & Opie 1959)。「学童の風習と言葉」と題されたこの論文において、この民俗学者夫婦は、午前中ルールがイギリスと、イギリスから文化的影響を受けた国々に見られるものであることを指摘した。

午前中ルールの起源がオークアップルデーにあるという指摘は、INDEPENDENCEの記事において紹介されている。

イギリスで[エイプリルフールの時間帯に]期限が設けられているのは、17世紀のShig-Shag dayに由来するものかもしれない。チャールズ2世がオークの樹に隠れて追手から身を隠した故事にちなんで、[祭りの]執行者たちは、オークの小枝を帽子につけて王政への忠誠を示した。慣行を守らなかったものをあざ笑ってよいのは、正午までとされていた。(引用者訳)

Shig-Shag dayというのは、オークアップルデーと同様のものであり、他にShick-Shack dayと呼ばれることもあるようだ。

さて、ここでオークアップルデーの説明について、冒頭のねとらぼの記事と、いくつかの相違があることに気づく。まず、オークアップルデーに身につけるのは、「オークの実」ではなく、「オークの小枝」のようだ。そして、オークアップルデーは、17世紀に祝われていた記念日であり、現在では祝われていない記念日のようだ(実際には、英語版wikipediaによれば、Upton-upon-Severn や Marsh Gibbon など、この風習が残る町がいくつかあるらしい)。

3. その他の説

The Museum of Hoaxesは、午前中ルールの起源について、異なる説を載せている。

このルールの背景には、古代の俗信があるのかもしれない。エイプリルフールの日は、強い力の源である、愚神(Folly)の精神をたたえるものだ。だから、厳密な期限を定めておく必要があった。そうしなければ、愚者の精神が一線を越えることで、その後の一年に混沌をもたらしてしまうかもしれないからだ。(引用者訳)

愚神の精神が解放されないために期限を設けたというこの説は、オークアップルデーに由来を求める説に比べると、やや明快さを欠くが、不思議な魅力を持つ説ではある。この説によれば、一年は、愚神を礼賛することから始まる。また、愚神の精神は強い力の源である。

この説は、タロット・カードにおける「愚者」のカードと、興味深い共通点を持つように私には思われる。一年が愚神礼賛から始まるように、タロットカードの22枚の大アルカナは、「0. 愚者」から始まる。また、愚神が強い力の源であるように、「『愚者』のカードは、従来の社会の枠組みには収まらない、いまだかたちにならない純粋なエネルギーを表す」(鏡 2017, 21)。エイプリルフールの愚神とタロットの愚者には何らかの関係があるのだろうか。しかし、この問題には、ここではこれ以上立ち入らない。

4. 午前中ルールはいつからあるのか

前述のThe Museum of Hoaxesによれば、午前中ルールは1855年まで遡って確認することができる。1855年8月11日の英Notes and Queries誌に、ハンプシャーでは、4月1日の12時以降にイタズラをした者は、次のような囃し言葉をかけられるという記述があるという。

エイプリルフールは過ぎ去った、

最後に一番の愚か者になったのはお前だった。

エイプリルフールがまた来たら、

そのときはお前が一番の愚か者。(引用者訳)

 

また、1905年の同誌では、投稿者が、自分が子供だった19世紀中盤には、午前中ルールが効力を持っていたと回顧しているという。

このように、午前中ルールは、19世紀中盤には存在し、20世紀初頭には過去のものになっていたルールだと考えられる。

5. まとめ

本記事では、「エイプリルフールに嘘をついてよいのは午前中まで」という「午前中ルール」の起源と歴史について書いた。

エイプリルフールの午前中ルールは、イギリスにおいて、19世紀ごろに存在していたルールだと思われる。このルールの起源は、17世紀に祝われていた記念日であるオークアップルデーとの混同に由来するとも、古代の俗信に由来するともされるが、真相は明らかではない。

トム・ペティが死んだ

トム・ペティ死去。

2日早朝、自宅で心停止状態になっているのが見つかり、病院に救急搬送されたが蘇生もかなわず、息を引き取ったという。ツアーを1週間前に終えたばかりだった。享年66。

マッド・クラッチのベース・ヴォーカリストとしてキャリアをスタートさせ、マッド・クラッチ時代からの盟友、マイク・キャンベルやベンモンド・テンチらと組んだトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズでは、ギター・ヴォーカリストに転向。夢の中を駆け抜けるようなバンドのキャリアの中で、American Girl, The Waiting, Mary Jane's Last Danceをはじめ、数えきれないほどの名曲をこの世に送り出した。

ジョージ・ハリスンボブ・ディランロイ・オービソン、ジェフ・リンと組んだトラベリング・ウィルベリーズでは最年少の弟分として活躍。Handle Me With CareEnd of the Lineでは、再びベース・ヴォーカルを披露している。他にもリンゴ・スタースティーヴィー・ニックスら、数々のアーティストとも共演。

後進にも多大な影響を与えた。レッド・ホット・チリ・ペッパーズストロークスはそれぞれ、トム・ペティの楽曲と「パクリ」ともいえるほどに酷似した楽曲を発表。レッチリの曲を巡っては、あわや裁判沙汰に発展するかともいわれたが、トムは「いまさら僕たちがポップソングを巡って争わなくても、この国は十二分に下らない訴訟で溢れているよ」とコメント。寛容な姿勢を示した。ほかに、テイラー・スウィフトなんかもトム・ペティの楽曲をカバーしている。

アメリカのハートランド・ロックを歌うトムと彼のバンドは、日本にはボブ・ディランの前座を務めたときを含めても2回しか訪れておらず、知名度も「『ジョジョの奇妙な冒険』のトンペティ師匠の元ネタ」程度、一部の音楽ファンが「プリンスがビートルズWhile My Guitar Gently Weepsに載せてすごいギターソロを弾く動画」のヴォーカルとして、知っている程度であった。

一方で、日本にも熱狂的なファンが、幾人かはいた。私もその末席に名を連ねる資格はあると思う。

トム・ペティは、私の憧れだった。私はトムに憧れてハットをかぶり、トムに憧れて片頬で笑い、トムに憧れてギターをブリッジ付近でかきならし、トムに憧れて鼻にかかった歌い方をして、ステージで、スタジオで、ライブハウスで、何度もトムの曲を歌った。

単純なコードで素晴らしい曲が書けること、簡単な道などどこにもないこと、そして、レイドバックでも自分の足で立っていることを教わった。

トムはかつて、自分のバンドの仲間について、こう語った。「こいつらには、なにか特別なところがあるんだ。このグループを、今では宝物のように思っているよ。だって、鎖の輪をひとつ組み変えるだけで、神様はすべてを消し去ってしまえるんだからね」。

私にとっては、トム・ペティ、あなたこそが特別な存在だった。私にとっては、トム・ペティ、あなたの音楽こそが宝物だった。そしていま、神は無情にも、鎖の輪をひとつほどいた。ついに飛び方を学ぶことができたのだろうか、トムはどこか遠くへと飛び去って行ってしまった。トムのステージを生で観る夢は叶わなかった。

トムの南部訛りをもう聴くことができない。

The wild one, forever...

『私は自分のことを、世界市民だと思っています』(水原希子)

以下に挙げるのは、水原希子さんが「日本人じゃないから許して」と発言したとされる動画の全訳です。実際にはそのような発言は存在しませんでした。

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 こんにちは、みなさん。私はオードリー・希子・ダニエル。ファンや多くの人たちには、水原希子として知られています。中国の皆さんに心から謝罪し、この動画で、特に、最近の出来事で私に失望しているオンライン・コミュニティの皆さんに、いくつかのことについてご説明させていただきたいと思います。

 私のバックグラウンドについてご存知ない方にご説明すると、私は今は日本に住んでいますが、実際にはアメリカで生まれました。父はアメリカ人で、母は日本で生まれた韓国人です。私たちの一家は、私が2歳の時に日本に移り住み、私は神戸で育ちました。多様な文化的バックグラウンドを持っているおかげで、私は様々な文化に触れ、世界中からの人々と友達になる機会を得て、そしてもっと大事なこととして、異なる人たちを相互に尊重することを学びました。私は自分のことを、世界市民(global citizen)だと思っています。

 最近中国を仕事で訪れる機会がありましたが、それ以前から日本に住む中国人の友達がたくさんいました。とても親しく、大切な友達です。中国で過ごす時間が増えるにつれ、新しい友人が増え、中国の長い歴史や驚くべき文化について知ることができたことを幸運に思います。

 私は断じて中国の誰のことも、傷つけることも、傷つけるつもりもありません。ですから、最近起きた三つの出来事について、明らかにしていきたいと思います。

 まず、私は世界平和を支持しており、断固として反戦です。(靖国神社の祭りに女性の後ろ姿が移っている写真を提示して)この写真に写っているのは私ではないということを断言します。とても親しい中国人の友人は、こういう状況を「錯把馮京当馬凉」(馮京を馬凉と見間違える)と言うのだと教えてくれました。

 ご説明したい二つ目の出来事は、別の写真に関係しています。私は旗の前で、侮辱的なポーズをとったとして、非難されています。私はこの写真に写っていないということを、断言させていただきたいと思います。私は平和の支持者なのです。

 三番目は、インスタグラムで2013年に起こった、後悔すべき出来事です。私は友人にインスタグラムを紹介し、写真をポストするように勧めていました。結果として、私は彼の投稿する写真にlikeを押すことで、彼のポストを後押ししていました。そして、残念なことに、彼が非常に不適切な写真を投稿していたことに気づいたのです。私は1時間もしないうちにlikeを取り消し、自分が間違っていたことを悟った友人も、写真を削除したのです。

 皆さんに、「対不起」(ごめんなさい)を申し上げるのに加えて、誤解されて、「馮京当馬凉」な状況になっている人たちには、ちゃんと話をして、真実を明らかにすることをお勧めします。

 最後にもう一度、私にがっかりしたすべての人たちに謝罪いたします。私たちはそれぞれ違う文化を持っていますが、私は、相互理解の促進、そして愛と平和が、私たちを結びつけ、世界をよりよい場所にしていくと信じています。

 謝謝大家(皆さん、ありがとうございました)。

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翻訳: @mcnang